コンテンツ本文へスキップ
プリローダーイメージ
スマートフォンサイトはこちら

ジオかるた

カキの化石
カキの化石

「も」・・・守人(もりびと)を育む ジオパーク秩父のシンボル「武甲山」

  • 「も」・・・守人(もりびと)を育む ジオパーク秩父のシンボル「武甲山」
  • 「も」・・・守人(もりびと)を育む ジオパーク秩父のシンボル「武甲山」
武甲山と若返った秩父古生層

1887(明治20)年,東京大学の卒業論文で大塚専一により「秩父古生層」が命名されました。これが,1889(明治22)年,原田豊吉の論文で一般に広まり,日本列島の古生層の総称になりました。

1970 年代までは,高校地学の教科書に「秩父古生層」が太字で載せられていました。ところが、1938(昭和13)年,藤本治義は、長瀞でジュラ紀(約2 億年前~ 1.3 億年前)の放散虫化石を発見したと報告しました。さらに、1963(昭和38)年,新潟県青海や足尾山地の「秩父古生層」から中生代三畳紀(約2.5 億年前~約2 億年前)をしめす、正体不明の微化石「コノドント」が発見され、1972(昭和47)年には、武甲山でも三畳紀のコノドントが発見されました。(その後の研究で、コノドントの正体は原始的な脊索動物の器管だったことが分かりました。)

1970 年以降になると,岩石をフッ酸で溶かして放散虫を取り出す技法が導入されて,それまで化石が出ないとされていた泥岩やチャートから多くの放散虫化石が発見されました。 その結果、「秩父古生層」の大部分が中生代ジュラ紀だったということが分かり、「秩父中・古生層」、「秩父層群」、「秩父帯の地層」などと呼ばれるようになりました。

1978(昭和53)年,武甲山山頂付近で三畳紀の貝化石が発見され,いよいよ「秩父古生層」の時代を改めざるを得なくなりました。

コンテンツ本文の先頭へ戻る ページの先頭へ戻る
コンテンツ本文の先頭へ戻る ページの先頭へ戻る