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日本地質学発祥の地

美の山展望台からの盆地西側を望む_s

ストーリー概略

明治時代、日本の近代地質学の夜明けから、秩父ではその先駆けとなる様々な研究が行われてきました。

「地球の窓」とよばれる長瀞の岩畳を代表として、日本列島形成における重要な地質資源を観察できる場所として、東京からほど近いここ秩父へと、著名な研究者から学生まで多くの人々が訪れてきました。

ここでは、ジオパーク秩父を『日本地質学発祥の地』として語りながら、深く係わりがあるジオサイトや拠点を巡り、かの宮沢賢治やナウマン博士に思いを馳せて、秩父の大地が教えてくれる地球の成立ちを探ってみましょう。

  • 長瀞の岩畳

    長瀞の岩畳

  • 日本地質学発祥の地の碑

    日本地質学発祥の地の碑

  • 第3回汎太平洋学術会議における秩父巡検(画像提供:埼玉県立自然の博物館)

    第3回汎太平洋学術会議における秩父巡検(画像提供:埼玉県立自然の博物館)

秩父で迎えた日本の近代地質学の夜明け

「日本地質学の父」ナウマン博士

「日本地質学の父」ナウマン博士が秩父の地へ

明治時代になると、日本に訪れた近代化の潮流のなか、政府によって地下資源開発を目的とした全国的な地質調査がはじまりました。明治8年(1875)、「ナウマンゾウ」で有名なドイツの地質学者であるナウマン博士が政府により招聘され、明治10年(1877)には東京大学の初代地質学教授となりました。

ナウマンは、着任の翌年である明治11年(1878)、さっそく秩父を訪れています。この時は秩父から長野、山梨、神奈川県へ至る調査であり、三峰口の贄川宿、三峯神社にも泊まったと伝えられています。その後、ナウマンの一番弟子である小藤文次郎は世界で初めて紅簾石片岩を報告(1888)、大塚専一は「秩父古生層」「秩父盆地」を命名、原田豊吉は山中地溝帯(現在の「山中層群」または「山中白亜系」)を命名(1890)するなど、著名な研究者たちが続々と秩父の地から全国の地質研究に大きな影響を及ぼしています。

鉄道も後押しした秩父への地質巡検ブーム

大正3年(1914)、開業間近の旧秩父駅構内(画像提供:秩父鉄道株式会社)

東京大学教授の神保小虎は、明治34年(1901)、自身の論文「秩父にある美しき皺と断層」の冒頭で、「我が国の地質学者が一生に必ず一度は行きて見るべき」と記しています。その他にも多くの研究者によって秩父地域の地質研究や報告がなされ、明治から大正時代にかけて秩父地域は多くの地質研究者、そして学生たちにとって巡検のメッカとなるのです。

明治44年(1901)には上武鉄道(現在の秩父鉄道)が熊谷から皆野まで、大正3年(1914)には秩父駅(当時の駅名は大宮駅)まで延伸され、東京からのアクセスが容易になりました。このころには、地質巡検だけではなく、景勝地として観光開発も行われ、多くの観光客が訪れるようにもなります。

ちなみに、かの宮沢賢治も、大正5年(1916)、当時在学していた盛岡高等学校農林学校の授業の一環で、秩父巡検に訪れ、数々の歌を詠んでいます。その代表的な作品は、ジオサイトである虎岩やようばけにある歌碑にもなっています。今は「ジオサイト」となっている地質の名所の多くに立ち寄っていることから、宮沢賢治の青春時代の足跡を辿るのもジオパーク秩父の楽しみの一つとなっています。

ジオパーク秩父のガイドブックの元祖?「秩父鑛物植物標本陳列所目録」

秩父鑛物植物標本陳列所目録(画像提供:埼玉県立自然の博物館)

さらに、大正10年(1921)に長瀞に訪れる人に岩石標本などを見せる施設として、神保小虎らの学術支援のもと、上武鉄道が「秩父鑛物植物標本陳列所」を開設しました。その際に発行された目録(写真右)では、地質の見どころについて解説が書かれていますが、日帰り、泊まり別にモデルコースも紹介されています。まさに、ジオパーク秩父のガイドブックの元祖といえるものです。

第3回汎太平洋学術会議における秩父巡検で長瀞岩畳を訪れた研究者たち(画像提供:埼玉県立自然の博物館)

その後、秩父の魅力が世界に紹介される機会が訪れます。大正15年(1926)、東京で行われた「第3回汎太平洋学術会議」におけるエクスカーション(見学会)として、国内外の研究者が秩父に訪れました。これを機に、秩父・長瀞地域の地質や陳列所の存在が広く世界に紹介されていくことになります。

約100年の自然科学研究の歴史を担う拠点へ

陳列所は戦後に一時衰退しましたが、昭和24年(1949)、東京教育大学教授であった藤本治義の学術協力のもとに秩父鉄道が「秩父自然科学博物館」を開設し、地域の自然科学の拠点を担う施設へと発展を遂げました。そして、昭和56年(1981)には埼玉県によって県立自然史博物館(現・埼玉県立自然の博物館)が完成。前身の施設を含めると約100年もの長きにわたる歴史を持つ秩父地域の自然科学研究の中心地として、そしてジオパーク秩父の拠点施設として現在もその重要な役割を担っています。

  • 秩父鑛物植物標本陳列所
  • 秩父自然科学博物館
  • 秩父自然科学博物館に訪れた人々

秩父の大地ができるまで ~大洋の時代から大陸の時代へ~

数億年前の岩石が語る、大洋の記憶

秩父山地の山々を形作っている秩父帯や四万十帯と呼ばれる地層や岩石は、古生代(約3億年~2.5億年前)から中生代(約2.5億年~6550万年前)にかけて遠く南洋で噴出した海底火山や火山島の火山噴出物、サンゴ礁を形成した生物や海洋に浮遊・遊泳した生物の殻や骨格が海底に堆積したものなどからできています。海底に積もった堆積物は、陸地から流れこんだ土砂と混じりながら、海洋プレートとともに気の遠くなるほど長い時間をかけて大陸側に移動していきます。

大洋の時代の記憶をもつ秩父地域の代表的な岩石と山

二子山
武甲山
石灰岩

石灰岩は、サンゴやフズリナなどの炭酸カルシウムの殻や骨格を持つ生物の死骸が海底に堆積してできた岩石です。秩父地域最古の石灰岩化石は、小鹿野町日尾から産出した約3億年前(古生代石炭紀)のサンゴの化石です。

小鹿野町の群馬県境の奥地に切り立った石灰岩の山「二子山」は約3億年~2.5億年前(古生代石炭紀~ペルム紀)の山。フズリナ(紡錘虫)やウミユリの化石が多く含まれています。

そして、石灰岩採掘が行われている秩父を象徴する山「武甲山」では、石灰岩中からコノドントといわれる原始的な魚類の歯の化石、山頂付近の石灰岩の下から二枚貝の化石が発見されており、中生代三畳紀(約2.5億年~2億年前)のものと考えられています。

ちなみに武甲山は、秩父市街地から見られる北側斜面にのみの石灰岩があり、その下と南側斜面には緑色岩(玄武岩)が分布しています。

武甲山ができるまで
  • 武甲山ができるまで①
  • 武甲山ができるまで②
  • 武甲山ができるまで③
  • 武甲山ができるまで④
両神山
チャート

チャートは、水晶と同じ二酸化珪素が海底に堆積してできた、硬くて緻密な岩石です。約5億年前から生きている、放散虫と呼ばれる約0.2mmのとても小さなプランクトンの骨格が含まれるものが多くあります。放散虫は時代ごとに形態が異なっており、さらに広い範囲で産出することから、その時代を特定する「示準化石」として優れています。

西秩父にそびえるノコギリ状の両神山は、東西約8km、幅2~3kmにおよぶ巨大なチャートの岩体です。硬い岩石であり、浸食につよいためこのような山容をつくったと思われます。

日本列島の基盤を作り上げた「付加体」

南日本列島の土台は厚さ約30kmの大陸地殻で、主に花崗岩類でできており、その表層部数 km にはさまざまな堆積岩・火成岩および変成岩があります。日本列島全体では、表面の 60%は新生代の地層や火山噴出物が覆っています。ところが、秩父山地では秩父盆地を除き、日本列島の基盤岩とよばれる、中古生代の比較的かたく固まったさまざまな岩石や地層が広く露出しています。

日本列島の基盤岩の多くは、太平洋側から海洋プレートが海溝で沈み込むときに、海洋プレート上の火山の玄武岩やサンゴ礁の石灰岩、大洋底のチャートなどが、陸地起源の泥岩・砂岩などとともに、大陸縁プレートの先端に押し付けられた付加体で構成されています。

秩父山地の基盤岩は、中生代ジュラ紀の秩父帯・白亜紀の四万十帯の付加体と、その一部が地下20~30kmまで沈み込んで高圧のために変成岩となった三波川帯から構成されています。これらの地質帯は、西は九州まで東西に長く帯状に配列しています。

長瀞の景観を作り上げた三波川帯の「結晶片岩」

長瀞の結晶片岩(虎岩)

大陸の縁に付加した堆積岩類の一部は、プレートの沈み込みに伴い地下深くへと押しこまれ、地下20~30kmの深さで、高い圧力とによってパイのようにうすく剥がれやすい片理という性質をもった、雲母などの鉱物からなる結晶片岩という変成岩に変わります。地下深くでできた結晶片岩が、その後の地殻変動によって地表へと露出したのが三波川帯です。長瀞の岩畳が「地球の窓」と言われる所以です。

長瀞の景観は、結晶片岩の平らな片理と、地上に現れて圧力から解放されてできた節理という割れ目に支配された、荒川の侵食によって形づくられています。また、変成岩のもとになった岩石の違いや、押し込められた深さの違いによって、長瀞周辺では様々な色や模様の結晶片岩を観察することができます。

長瀞の岩畳ができるまで
  • 長瀞の岩畳ができるまで①
  • 長瀞の岩畳ができるまで②
  • 長瀞の岩畳ができるまで③
  • 長瀞の岩畳ができるまで④
  • 長瀞の岩畳ができるまで⑤

埼玉県から恐竜化石がでるかも?!山中層群とは

志賀坂峠からみた山中層群(山中白亜系)の地層が広がる谷

秩父盆地を取り巻く山のなかでひときわ低いところに、山中層群(山中白亜系)と呼ばれる地層が広がる凹地帯の谷があります。小鹿野町から志賀坂峠を越えて、長野県佐久市まで幅約2~4kmの帯状に約40kmに渡って伸びています。約2億年~1.5億年(中生代ジュラ紀)に堆積した秩父帯の地層の上に、約1.3億年~1億年前(中生代白亜紀)の地層が堆積したものです。

山中層群(山中白亜系)の地層

この山中層群ができたのは恐竜時代に重なっており、群馬県側では恐竜の化石が見つかっています。埼玉県側(小鹿野町)からもこれまでにアンモナイトやべレムナイト、そして2018年にはオウムガイの化石が見つかっており、今後、恐竜の化石が発掘されるかもしれません。

山中層群の地層が観察できる主なサイトはこちら

関連施設

「放散虫革命」によって若返った「秩父古生層」

明治20年(1887)、東京大学の卒業論文で大塚専一により「秩父古生層」が命名されました。これが、明治22年(1889)、原田豊吉の論文で一般に広まり、日本列島の古生層の総称になりました。また、「秩父古生層」がつくられた海底の沈み込む凹みとして、昭和16年(1941)に、小林貞一が「秩父地向斜」を提唱しました。こうして、1970 年代までは、高校地学の教科書に「秩父古生層」「秩父地向斜」が太字で載せられていました。

ところが、昭和13年(1938)、藤本治義は、長瀞でジュラ紀(約2億年前~1.3億年前)の放散虫化石を発見したと報告しました。

さらに、昭和38年(1963)、新潟県青海や足尾山地の「秩父古生層」から中生代三畳紀(約2.5億年前~約2億年前)をしめす、正体不明の微化石「コノドント」が発見され、昭和47年(1972)には、武甲山でも三畳紀のコノドントが発見されました。昭和58年(1983)、原始的な脊索動物(コノドント動物)の口の中に6種11個のコノドントが配列したものが発見され、コノドントの正体は原始的な脊索動物(コノドント動物)の器管だったことが分かりました。

秩父帯の山々(白岩山と雲取山)

1970年以降になると、岩石をフッ酸で溶かして、放散虫を取り出す技法が導入されて、それまで化石が出ないとされていた泥岩やチャートから多くの放散虫化石が発見されました。その結果、「秩父古生層」の大部分が中生代ジュラ紀だったということが分かり、以来、「秩父中・古生層」、「秩父層群」、「秩父帯の地層」などと呼ばれるようになりました。さらに昭和53年(1978)、武甲山山頂付近で三畳紀の貝化石が発見され、いよいよ「秩父古生層」の時代を改めざるを得なくなりました。

放散虫(wikipediaより)

1970年代末から1980年代初頭の数年間に、今まで古生代と思われていた地層が中生代のものであると判明した地球科学史の一大転機を「放散虫革命」といいます。これにより、「プレートテクトニクス」という、地球の表面を覆っているプレートの動きによって大陸が移動し、造山運動、火山、断層、地震などの地殻変動によってさまざまな地質現象が起こり、現在の大地が成り立っているという学説が主流となりました。

ちなみに、1990代以降の新しい学説のうちの一つに、「プルームテクトニクス」というものがあります。この説は、地球の表面のプレートの動きに焦点を当てる「プレートテクトニクス」に対し、深さ2,900kmに達するマントル全体の動きで大陸の変動を説明するものです。今後も、さまざまな新しい学説によって地球の成立ちの研究が進んでいくものと思われます。

秩父に古くから伝わる石の呼び名

近代地質学の普及と発展により、岩石や地質現象には研究者による新しい学術的名称が与えられ、細分化されてきました。しかし、常に人々の暮らしと密接にかかわっていた岩石には、古くからの呼び名があり、今でも地域それぞれに残っているものです。ここでは、秩父地域に伝わる古くからの岩石や石材の名称をご紹介します。

  • 真石(まいし)

    • 秩父トーナル岩(真石のイメージ)
    • 奥秩父山地や上武山地の山々をつくる秩父帯は、古い時代(約2~3億年前)堆積岩などからできています。秩父帯のチャートや砂岩は、石垣や漬け物石に利用されてきました。このような風化に強く、硬くて緻密な石のことを、秩父では昔から「真石」、つまり真(まこと)の石と呼んできました。

  • 権兵衛石(ごんべえいし)

    • 権兵衛石(中央の割れているもの)
    • 約1700万年~1500万年前に秩父盆地に存在した「古秩父湾」と言われる海に堆積した新生代新第三紀の石で崩れやすい泥岩や砂岩などのことを、硬い真石に対して「権兵衛石」と呼んできました。「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」といわれるように、昔話などで間の抜けた人物として登場する「権兵衛さん」ですが、使い物にならない石という意味で昔から使われていたようです。

  • 岩殿沢石(いわどのさわいし)

    • 札所4番金昌寺の石仏群(岩殿沢石)
    • 秩父盆地の西隅、札所31番観音院の裏手の観音山や東側の大石山で産出された石。火山灰を含む石は刻みやすい硬さの凝灰質砂岩であり、秩父地域一帯で昔から石垣、石仏、墓石、石段などに使われてきました。札所4番金昌寺の石仏群にもこの石が使われており、大勢の人の手を経て運ばれたもので「功徳石(くどくいし)」と呼ばれました。

  • 秩父青石(ちちぶあおいし)

    • 野上下郷石塔婆(秩父青石)
    • 長瀞など、三波川変成帯に分布する緑色の緑泥石・黄緑色の緑簾石を含んだ結晶片岩。うすく板状に割れるため、昔から板石塔婆、建材、庭石、踏み石などに使われてきました。秩父地域内はもとより関東一円にある古い石碑でよく見られます。日本一の青石塔婆である野上下郷石塔婆が有名であり、近くに石材採掘遺跡もあります。

  • 日野龍眼石(ひのりゅうがんいし)

    • 日野龍眼石(ひのりゅうがんいし)
    • 海底火山から噴き出た火山灰が固まった茶色の凝灰岩と、南海のサンゴ礁からできた白い石灰岩が混在してできた石。産出地である秩父市荒川地区の地名「日野」と、その模様が龍の目に似ていることからその名がつきました。その珍しい見た目から庭石などで重宝されたそうです。明ヶ指のたまご水と大カツラ付近の川原で見ることができます。また、西武秩父駅前の秩父農工高等学校跡地の碑の台座にも使用されており、こちらにはウミユリの化石が入っています。

  • 貴蛇紋(きじゃもん)

    • 貴蛇紋でできた印鑑
    • 地球深くにあるマントルを構成するカンラン岩が水と反応してできた石で、濃い緑色で光沢があり、岩肌が蛇の皮膚のように見えることから「蛇紋岩(じゃもんがん)」と名がついた石があります。蛇紋岩は磨くと美しい石材となり、「緑色の大理石」とも言われます。特に品質が良いものは「貴蛇紋」と呼ばれ、国会議事堂中央玄関の市松模様の床にも秩父産の貴蛇紋が使われています。ちなみに、蛇紋岩で白い脈(方解石)の入ったものを蛇灰岩(じゃかいがん)といいますが、その見た目から「鳩糞石(はとくそいし)」という不名誉な別名もあります。

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