周囲よりやや高く露出した砂岩の上に観音堂が建っています。この岩はチャートの角礫を含んだ砂岩です。かつてこの一帯は海でしたが、約1500万年前に外秩父山地が上昇し、その時崩れた大量の土砂が3km離れたこの場所まで流れ込んでできました。その後、海の中で新たな堆積物で覆われ硬くなっていきました。
やがて数万年前になり、荒川が盆地の中を流れるようになると、周りの泥岩は荒川に削られましたが、硬い角礫質砂岩は削り残されて突出した高まりになりました。境内の岩には川の侵食によって作られたポットホールがあり、ここはかつての川床で、激流が岩を洗っていたことがわかります。
江戸時代後期に発行された「観音霊験記」には、たいへんな旱魃の年、弘法大師の祈りによってこの地の盤石が割れて現れた竜が大雨を降らせ、飢饉から救ったとあります。東側に少し歩いてみると、水路を隔てて、大畑遊園地に登る階段のついた段丘崖(段丘地形の段差の部分)に境内と同じ含礫砂岩が表れています。竜は雨や水流を表すものです。この水路を、岩が割れて竜が現れた場所と考えたら面白いですね。ちなみにこの水路はこの辺を荒川が流れていたころの流路に当たり、その周囲の平坦なところは当時の川原に当たります。
堂内には本尊のほか閻魔大王をはじめとする十王像など地獄を表すものが祀られています。境内には三途の川の川辺で死者の服をはぎとる奪衣婆(だついば)の座像がまつられている「三途婆堂」もあります。「子育て婆さん」として、子どもの病気をなおしてくれるといわれています。
幕末の1858(安政5)年、午歳総開帳(うまどしそうかいちょう=札所本尊の総開帳)にあわせて、江戸で作成・販売された錦絵です。歌川広重2代・歌川豊国3代・歌川国貞の共作で、西国・秩父・坂東の三観音霊場(百観音)が題材となっており、江戸時代後期の観光の流行に応じて、各地の札所の由来を観音の霊験とともに紹介し、同時に名所旧跡の景観が描かれています。